2000年11月アーカイブ

20001129

睡眠時の体験、人生の目標、そのいづれにおいても夢とは、欲望を充足せんとする〈運動〉である。そういった意味において、夢は現実味(現実性ではない)を帯びた具体的抽象的表象なのであり、それは空想などとは決定的に区別されねばならない。逆にいえば、睡眠時の体験と人生の目標とが、夢なるその一語のもとに表象されるのは、それらがともにゆるやかな欲望充足運動であるからに他ならない。その欲望が現実に充足されるべきか否かはまた厳密に考えられねばならない難題であるが、結論からいえばしかし、睡眠時の体験たる夢が厭くまで表象のみの非現実である以上、充足される可能性は否めないものの充足されぬべきと考えるのが妥当であろう。しかるに現実味を帯びつつも非現実的な人生の目標たる夢もまた、充足されるべきものではない(以上で欲望を欲求と書かなかったのは、それが充足されぬべきものであるからである)。

そのように語源を逆説的に用いる論理は、自らをその名において規定するところの存在における〈名の逆転〉という事態に依拠している。すなわち、或る存在に付与されたはずの名が、一般化し、物象化(ないし具象化)し、存在に先行するという事態。あるいは、一般化の帰結として、定められた名がそのような存在一般を統率するという事態。

結論。存在は名に結実し、名は存在を抱擁する。

では、存在が名を抱擁するような事態はどうか。つまり、存在がその名において自らを規定すると同時にその名を背負う、という方法での存在の仕方。それは人間的な社会構造への積極的な企投ともいえるものであり、その検討は今後の課題として残される。なお、名が存在に結実することは原理的に不可である。

20001128

いかに幻想を懐こうとも、しかし所詮は肉の塊である。

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