2000年12月アーカイブ
文法は実のところ、主張されるべきものではない。文法は主張するものでも論じるものでもなく、則るものである。
記述が読解を要求しているというのは、読解者の解釈に過ぎない。
記述とは、「記述者」としての記述者と、「読解者」としての記述者の、自己分裂的自己統一の結節である。
爆撃において脚注が多用されるのは、線状的な視線の強制への反抗である。
記述者が文脈における自己の位置を随時確認するためにも、指示代名詞は多用されねばならない。
哲学はしかし、徹底的に爆撃されねばならない。それは人間が人間であるかぎり継続して爆撃されつづけなければならないのと同様である。哲学は完全なる爆撃ののちに、その学としての自己規定を超克し、あらゆる学を無化する。しかしそれに至るまでのあいだ、哲学は厭くまで寄生の学であり、無産の学でしかない。
隠蔽されるべきものは隠蔽されたままにしておけばよい。それはこの場合における「べし」が含意する社会的倫理的妥当からして確かである。このような態度に対して「革新」を掲げる側から批判が投げられることが少なからずあるが、しかしその際、隠蔽されるべきものを隠蔽されたままにしておくべきか否かという点に問題意識を措くのは失当である。隠蔽されるべきものは厭くまで隠蔽されるべきである(自同律)。我々が問題とせねばならないのはそこではなく、隠蔽されるべきとされるものが果たして真に隠蔽されるべきものであるのか否かという点である。これは当然のことでありながら、同時に問題の捉え方を換言しただけのナンセンスな相違ともとられかねないが、しかし保守と革新が妥結する可能性はこの共通の態度設定にかかっている。隠蔽されるべきもの、死、屍体、姿態、身体、臓器、性、自然、掠奪、弱者、構造、内部、始点、動機、狂気、意識、無意識。