理論と実践の最近のブログ記事

ストのない団交は怖く

ストのない団交は怖くないし団交できない組合なんて怖くない。つまり、争議権のない労働基本権は機能せず、「労働三権」なる構成は講学上のフィクションに過ぎないのではないか。それを実体的に法制化する公務員制度改革はかなりアクロバティックな理論構成をこなしてるわけですね。勉強になります。

「納税者には選挙権を

「納税者には選挙権を認めるべき」という主張はやっぱり理屈としておかしい。その理屈でいけば、生活保護受給者には選挙権を認めず、高額納税者には多数の票を与えるべきだ。そうでなく一人一票を維持するのは、ベースにフィクションであれ国籍を想定しているからだ。という本末転倒。

比例代表は過去に当選

比例代表は過去に当選実績がある人(比例・選挙区問わず)のみ名簿に載せられるようにすればよい。この場合、衆参は相互乗り入れ可が妥当。

曲に隷属する詞は、そ

曲に隷属する詞は、それ自体では言語表象として担う意味が空疎であることを知りながら、旋律を奪われたときのためにそれらしい御託を用意しているに過ぎない。しかしながら他方、観念を有する詞は、言語的意味を有さない曲に先行する主体であると信念する向きもある。

いずれにせよ、歌の主体性(主体的存立の資格の設定)は、本質的契機に依存する(本質的な実存として想定される)以上、主観的契機に依っている(本質を想定する主観の裁量による)。すなわち、旋律と歌詞のどちらが主体であるかは、観察者の主観によるものであり、また当時に、主観による断定を赦すものである。

したがってここにおける主体性はいかようにも設定可能であるので、このような議論は無意味である。ただし同時代的主観により設定される以上、このような主体性は一般的に、(見かけ上であるか否かによらず)旋律のような時間的構造を独占している者に独占されている(同時代的主観は時間的構造に魅了されている)。

零れ落ちるパイを悉く

零れ落ちるパイを悉く掬うべく設計された過度に緻密な制度は、実現のための政治プロセスを通過できない。民主主義社会における改革と制度化の実践の在り方としては、あまり精緻な制度を構想するのではなく、まず第一歩となる政治的に妥当な範囲で簡明な制度を掲げるのが効率的である。制度の不備への批判があらかじめ想定されるとしても、それは民主主義と革新の両立を図るためのソーシャルコストである。

茶でも華でも、総じて

茶でも華でも、総じて技芸の世界というものは、過剰な遊技か、実利が飽和して遊技化したものに過ぎない。そもそも得るべき功利的な価値がないのだから、そこに真髄をみとるなどという行為もまた、遊技の範疇を出ないことは留意されるべきである。それを忘れて、本質的な精神性を妄想するのは日本文化の悪い癖だ。奥が深いのではなく、底が抜けているに過ぎないのに。

20070614

やがて世界は色づき、色なき装置を背後に押し出す。

20070322

第二者の過去から未来までの全ての重みを、現在のこの身という一点において支える。抱擁する痛点とは、たとえばそういうことだ。

20070218

詩人とは、言語との(against/jointly with)闘争者である。そして現に存立する詩とは、言語との闘争に散った屍に過ぎない。

たとえば相田みつをの詩が詩ではないというのはどういうことかというと、それは詩そのものの分析ではなく、単なる詩人としての評価の話に過ぎないのだ。詩作は言語との闘争でなければならないのに、彼の詩は言語を道具として遊んでいるに過ぎない。端的に言えば、そのような態度は闘争する詩人に失礼だという下らない理由以外に評価の理由はなく、何ら作品についての評価ではない。そしてこのことが意味するのは、言語との遊戯は詩の精神を有していないという通念が存立しているということである。

20060413

立脚点銷失とは、自らを伝統に根拠づけることを拒み続ける戦略である。それは単純な原理に従いつつも、技術的に高度で困難な実践となる。だが、これを続けぬ限り、主体(解釈によっては立脚点銷失は主体性の棄却であることに留意せよ)には爆撃を企画する資格がない。より正確にいえば、伝統に根ざした特定の主体には爆撃の「主体性」および主体としての資格が無限に問われ続けるのに対して、立脚点銷失する主体には爆撃に係る特定の利害関係が外形的に存在せず、また同時に、係る後ろめたさや気遣いが生じない。

なお、この見解と爆撃の政治性との関係をどう整理するかが課題。

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