日記の最近のブログ記事
現役ゼミ生の祥子ちゃんから聞いていたが、上野千鶴子教授が今月末で東大を早期退職。なので先生にお疲れさまでしたメイルを送ったところ、退職後の連絡先とかの返事をもらった。最近も引っ張りだこだし、むかし研究室で言っていたような悠々自適生活ができるのかどうか。なお、最終講義(先生からもらった案内では特別講義と書いてあるけれど)は、3月15日(火)15〜17時、東大の弥生講堂一条ホールで一般公開でやるそうです。
昔のゼミのレジュメはこっちに移しておこう。
(上野基礎ゼミレジュメ)ジュディス・バトラー「触発する言葉」
(上野院ゼミレジュメ)ジョン・クラマー「都市と消費の社会学」
(上野院ゼミレジュメ)三浦雅士「近代的自我の神話」
平成22年の第51回科学技術週間のポスターに「触れあいと体験が/科学技術の無限の/未来へ扉を開く豊かな世界を/導く原動力となることでしょう」と書かれているが、意味がよくわかりません。
「まれに何々が混ざっている場合がありますが、品質上問題ありません。」というのは、正直に「本製品の品質はこの程度です。」と書けないのか。
たとえそれが救いのない罪の構造であったとしても、蝕知される以上その表面のどこかには必ず何らかの綻びがある。それは擬似存在芸術である。輪郭を揺らす傘の影のなか交わした契約に時効の規定はなかった。当該の契約を反故とする唯一の契機は、その影のゆらめきにある。唯一の方策、否定的弁証、すなわち爆撃。
僕には言葉しかない(これは何ら比喩ではなく直接的な言明である。)。しかし、地べたを掴んでは闇雲に投げつけるような真似はもうやめにしなければならない。これは僕の唯一の触手たる言葉を捨て去る試みだ。その試みが救済に依らずして遂行されるならば、その後この身には何も残らないこと、というより空虚とラベリングされた空間に投げ出されることを覚悟せねばならない。そのときこの身には、空間にむかって発話できるほどの主体性は残されていない。
これまでだって一人でやってきたじゃないか。何を、今さら。そう呟く言外にたった一筋の期待も隠されてはいないか。そう呟く失望の潭で、ふいと反転してくれることを望んではいないか。精査し、排除しなければならない(のか)。
影から食み出ること、悪魔の言葉を失うこと。
鋼鉄の背後で、口を噤む。
薦められた赤ワインを選ぶ。
「じゃあ、それをおねがいします。」
「承知しました。」
「それで、これを0まわりのテイラー展開にして頂けますか。」
「マクローリン展開で宜しゅうございますね。」
「ええ、二次まで展いてください。」
「ご予約はいつになさいますか。」
「ええと、水曜日は空いてますか。」
「水曜日、午後四時半からは如何でしょうか。」
「四時半か。五時からになりませんか。」
「五時からでも宜しゅうございますが、ご指定の内容ですと上がりの時間が午後十時を回ることになるかと思われますが。」
「そうですか。じゃあ、四時半からでお願いします。」
「畏まりました。お越しをお待ちしております。」
そして目が覚める。本当に頭がおかしくなったらしい。