現役ゼミ生の祥子ちゃんから聞いていたが、上野千鶴子教授が今月末で東大を早期退職。なので先生にお疲れさまでしたメイルを送ったところ、退職後の連絡先とかの返事をもらった。最近も引っ張りだこだし、むかし研究室で言っていたような悠々自適生活ができるのかどうか。なお、最終講義(先生からもらった案内では特別講義と書いてあるけれど)は、3月15日(火)15〜17時、東大の弥生講堂一条ホールで一般公開でやるそうです。
昔のゼミのレジュメはこっちに移しておこう。
(上野基礎ゼミレジュメ)ジュディス・バトラー「触発する言葉」
(上野院ゼミレジュメ)ジョン・クラマー「都市と消費の社会学」
(上野院ゼミレジュメ)三浦雅士「近代的自我の神話」
比例代表は過去に当選実績がある人(比例・選挙区問わず)のみ名簿に載せられるようにすればよい。この場合、衆参は相互乗り入れ可が妥当。
平成22年の第51回科学技術週間のポスターに「触れあいと体験が/科学技術の無限の/未来へ扉を開く豊かな世界を/導く原動力となることでしょう」と書かれているが、意味がよくわかりません。
「まれに何々が混ざっている場合がありますが、品質上問題ありません。」というのは、正直に「本製品の品質はこの程度です。」と書けないのか。
曲に隷属する詞は、それ自体では言語表象として担う意味が空疎であることを知りながら、旋律を奪われたときのためにそれらしい御託を用意しているに過ぎない。しかしながら他方、観念を有する詞は、言語的意味を有さない曲に先行する主体であると信念する向きもある。
いずれにせよ、歌の主体性(主体的存立の資格の設定)は、本質的契機に依存する(本質的な実存として想定される)以上、主観的契機に依っている(本質を想定する主観の裁量による)。すなわち、旋律と歌詞のどちらが主体であるかは、観察者の主観によるものであり、また当時に、主観による断定を赦すものである。
したがってここにおける主体性はいかようにも設定可能であるので、このような議論は無意味である。ただし同時代的主観により設定される以上、このような主体性は一般的に、(見かけ上であるか否かによらず)旋律のような時間的構造を独占している者に独占されている(同時代的主観は時間的構造に魅了されている)。
零れ落ちるパイを悉く掬うべく設計された過度に緻密な制度は、実現のための政治プロセスを通過できない。民主主義社会における改革と制度化の実践の在り方としては、あまり精緻な制度を構想するのではなく、まず第一歩となる政治的に妥当な範囲で簡明な制度を掲げるのが効率的である。制度の不備への批判があらかじめ想定されるとしても、それは民主主義と革新の両立を図るためのソーシャルコストである。