我々は、訪れない時が訪れるのを俟っている近代的人間である。現代は終末の嘘を観念しなければならない。いま、近代の超克再論。我々において近代の超克とは、終末論の克服に他ならない。
2001年2月アーカイブ
革命の失墜。
大衆歌手が〈革命〉を歌う時代に、我々は革命の不可能を知っている。彼らが歌う〈革命〉とは急速な発達(進化の加速)に過ぎず、それが革命ではないことはいうまでもない。革命なる語が中心的に指示するところは、イデオロギーの転覆であり、進化の止揚である。しかしマルクス主義は現実において、左翼的右翼に帰結する。マルクス主義との関係を絶てぬ限り、革命がその中心的含意を稀薄にして〈革命〉に落ち着くのも致し方ない。
世界とは、可能なものの実現している様である。つまり、映像のうちの選定された部分である。しかし、映像と世界とのあいだに本質的な差異が可能であるのか否かは、世界を実質的な全領域とする我々にとって不可知な問題である。ここに、論理的不可知と論理的可能の相剋が見られる。それでも我々が敢えて可能を採るのは、世界がほとんど不可知であるためである。
我々は終末後を生きている。これが我々の第一のテーゼである。
心身の二元を認めずとも、肉と言葉の二者択一を求められるときは確かにあるのであり、そのとき我々は黒川のように精神の優位を主張し、言語を採らざるを得ない。詩人は、いくら肉質的な鮮やかさを目指そうとも、所詮は心の寄生虫でしかないのだ。
一致しきれず鳴きつづける二肢体。人間における精神と身体、書道における内容と表記、言語におけるシニフィアンとシニフィエ、社会における理論と実践、モデルとオブジェ、言語と精神、信号と意図、意志と行動、意思と解釈。二項対立構造のひとつである。ただし、これらは互いに同権である純粋な二肢体と、一方が先行して他方を牽制する不安定な二肢体とに分けられる。
詩は、可能性に浴びせる嘲笑である。
考察は絞殺であり、考察されるべき絞殺死体は肢体であり姿態であり屍体である。これは単なる音の戯れではなく、世界の一側面を描いた真実である。世界はこのような爆撃の一形態たる無節操な読み替えによって、革新的に進行する。
芸術とは所詮、存在の戯れ、あるいは存在に纏わる戯れに過ぎない。つまり芸術にとってのユニヴァースは、存在界一般に限定される。対して言語は非存在と存在の相剋を主題とするのであり、それは芸術の域を完全に逸脱している。詩はしばしば芸術であると誤解されるが、それは言語を肉とする存在/非存在の爆撃(行為)なのであり、芸術に尺度=規定を求め得るものではない。なお、言語そのものは存在ではないように思われるかもしれないが、非存在として在ることが不可であるような論理的規定を甘受する構造である以上、それはユニヴァースにおける限定的一存在である(言語はユニヴァースの内部においてのみ可能である限りにおいて限定的であるが、その限定はユニヴァースなる枠組みのみであり、同時にそれ以外の制限を受けない非限定的=遍在的一存在である)。この言語なる一存在は、行為の結実として思念されるところの存在ではなく、可能な構造たる限りにおいての一存在である。したがって言語が限定的一存在であるというこの事実は、それが行為であることを妨げない。生成文法がこれを例証している。
芸術が存在であることは、言語の場合とは異なってこれもまた困難である。芸術が存在であるとき、その芸術性は存在へ言及し、存在は逆に芸術性を抱擁せんと試みる。つまり芸術=存在(芸術的一存在)の存立にあたっては、自体の存在=芸術への転倒が要求される。したがって芸術存在は、その究極において存在芸術でなければならない。存在芸術は確かに存在可能であろうが、しかしそれは実存ではない。換言すれば、あらゆる芸術存在は擬似存在芸術(似非存在芸術)でしかない(この結論は我々が古典の域を出ていないことを自覚せしめる)。擬似存在芸術とは存在芸術へむかう運動であるとする解釈は簡明であり、現在のところ我々もこれに異論はない。したがって我々は、芸術が存在であるためにはそれが行為でなければならないと考える。我々はここに、芸術(擬似存在芸術)は自存する真の芸術(完全存在芸術)を目標としていながらも、そのために自己を行為として「外的に」規定せねばならないという、芸術のジレンマを見る。
補足。擬似存在芸術が完全存在芸術を目標と措定するとき、完全存在芸術があらかじめ知られている必要はない。