我々が自己の表出を留保しそれに代えて世界に対する絞殺=考察を立てるのは、ナルシシスティックな自己表出への幼稚な嫌悪や自己表出それ自体への恐怖などによるものではない。〈立脚点の銷失〉に立脚する我々は、この〈立脚点の銷失〉なる事態をして世界を切断することを危機的に要求されているためである。発生論的にみるまでもなくやはり、世界の認識は自己の認識に先立つ。ところが反省後の世界は、既にして我々の世界である。極言すれば、あらゆる実在世界は主観的世界である。近代および現代(続近代)における客観的世界の可能性は、しかし未だ我々の主観的世界観のうちにある。ゆえに我々は現時点において、「世界は」と書き出したうえで、最終的に「我々は」と爆撃するのである。〈私装置〉とは、そのような衒言である。
ところで生物の認識機構は総じて世界認識のためのものであり、自己認識を主題とはしていない。ただし、世界認識は自己形成のためのフィードバック機構の一部であると解釈することもできる。生物において世界の弁証と自己の弁証が一致していることは再注目されるべきである。