2001年3月アーカイブ

20010324

我々が自己の表出を留保しそれに代えて世界に対する絞殺=考察を立てるのは、ナルシシスティックな自己表出への幼稚な嫌悪や自己表出それ自体への恐怖などによるものではない。〈立脚点の銷失〉に立脚する我々は、この〈立脚点の銷失〉なる事態をして世界を切断することを危機的に要求されているためである。発生論的にみるまでもなくやはり、世界の認識は自己の認識に先立つ。ところが反省後の世界は、既にして我々の世界である。極言すれば、あらゆる実在世界は主観的世界である。近代および現代(続近代)における客観的世界の可能性は、しかし未だ我々の主観的世界観のうちにある。ゆえに我々は現時点において、「世界は」と書き出したうえで、最終的に「我々は」と爆撃するのである。〈私装置〉とは、そのような衒言である。

ところで生物の認識機構は総じて世界認識のためのものであり、自己認識を主題とはしていない。ただし、世界認識は自己形成のためのフィードバック機構の一部であると解釈することもできる。生物において世界の弁証と自己の弁証が一致していることは再注目されるべきである。

20010318

美は本質的なもの(事態)ではない。

学とは総じて映像についての学である。世界とは、映像の海へと貫入してゆく果敢ない一状態である。

20010317

世界に音楽がなければ、幽かな魂も鮮やかに発光することができると思う。

20010315

任意に与えられた映像が世界に属するものであるか否かを判断するのが困難なのは、世界が級数展開不可であるためと思われる。人は自己の所属する映像を世界と認定し、そこからの連続的な類推によって任意の映像が世界か否かを判定する。

20010310

我々は死を、遺失を、毀損を、銷失を、失墜を、散逸を間近に感じていた。構造が崩れてしまうことを真に知っている者、すなわち窮竟的な終末論者は、生の「目的」が幸福の実現にないことを知っている。これは生の無目的性とは別に主張され得るものである。幸福とは、この地球のこの時間において暫定的に確保されるべき消極的な項に過ぎない。

20010309

未だ人生を消尽しきっていない者が人生を語ることは、行為の予後を怖れ、あらかじめ弁明を立てておくことに他ならない。しかし我々はここに敢えて規定する。人生とはその理念において、暗鬱な歓びの実践である。

20010308

葉は華になり得るが、葉のままでいる方がよい。

20010306

先に、破滅において存するとされる美は終極という静なる一点において存する美である、ということを述べた。ただしこの記述は不十分であったかもしれない。破滅において存するとされる美は、真に破滅において感受される美と、破滅への態度において感受される美とに分けられる。前者が先の記述が言及する厳密な意味での終極の美であり、後者は人間的な精神の美である。後者は破滅なる静の一点に対して不動の精神をもって消尽する態度における美である。つまりその美は、消尽に潜む静に存する美である。

20010302

音韻形象はそれ自体では在れない。文字形象においても同様である。これらは常識的な観念であろうが、しかし我々は漢字における文字の解体を知っている。この果敢ない可能性をいかに抽出するか、ということも一応の課題ではある。ところで西欧では未だに、文字に対する音韻の優位が主張される。これは身体に対する精神の優位とはまた別の主張として理解されるべきである。前者は信念の問題であり、後者は態度の問題である(ここに信念は態度と直接に結びつくものではない)。文脈の解体もまた、可能であると思われる。

20010304

人々はしばしば(愛智を含めて)愛を最高善に据えようとするが、しかし愛は最高善たり得ない。というより、そもそも最高善は決定され得ない。なぜなら、評価尺度は評価者に先立って決定され得ないためである。最高善=至善なる道徳的最高目的といえども、道徳なる遊戯を実行するのが人間(生命)である以上、それは絶対ではない。これは文化的相対性などの単純な問題に帰着する問題ではなく、ユニヴァース(論及可能世界全体)の根幹に関わる資格問題である。もとより最高善は、ユニヴァースの至るところにおいて最高善でなければならない。そして何より、最高善は直ちに評価者全体にその肉を信認されるものでなければならない。全人類に直ちに信認される最高善が現に存しているのであれば、そもそも闘争は起こらない(最高善が未だ知られていないために闘争が起こるとするならば、少なくとも愛は最高善ではない)。未登場の最高善を俟つことがいかなることであるか考察せよ。発生論的にみて、善悪なる観念が最高善ないし最高悪から発したものではない以上、最高善とは想定された到達点である。つまり最高善なる観念は、終末論の一種である。終末に辿りついていないこの世界は実のところ、既にして善悪の彼岸なのである。しかし絶望的な川岸である。ここにおいてなお善悪なる概念は残存しており、同時にそれらは通底している。国際情勢がそれを如実に物語っている。最高善が未出であるいま、善悪なる絶対的「評価」が通用するのは、この世界のうちに隔離された密室においてのみである。実験室から帯出された尺は歪む。

20010303

美は常に静のなかに存する。人間存在、運動、闘争、生存、進化、物語、論証、音楽をはじめとする、時間に付帯すると思念されるところの対象(音楽や論証そのものは時間を要求しないが、その再生は時間的に遂行されねばならず、それは「実質的」には時間を要求しているように「見える」)における美、つまり動のなかに存すると思念されるところの美は、実のところ動のなかの静のなかに存する美である。つまり時間的変化を為す対象のなかにあって、時間的変化を為さない(と一般に思念される)要素、たとえば構造、精神、法則、文法、存在など、システムのアイデンティティにおいて存する美である。このことは、言語における美がパロールそのものに存するものではないことからも明らかである(ただし言語の場合は動的なラングにおける静についての考察を要する)。なお、破滅なる経時的(時間的)現象において存すると思念されるところの美は、破滅=終極という静なる一点(と思念されるところ)において存する美である。

しかし美は、限定的な我々が中心的に求めるべきところのものではない。

20010228

現象に対する認識の先行。現象的世界は、経験に支持=支配された認識的世界に過ぎない。しかしこの事実さえもひとつの解釈(理説)の域を出ない。実際、現象と経験と認識とは三位一体の構造を成しているのであり、その爆撃の困難は認識論の困難に明らかである。

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