2003年3月アーカイブ

20030310

音楽はあらかじめ祝福されるように構成されている。換言すれば、祝福を受けるもののみが音楽としての現存在を受けられる。ここにおいて唄に仕える詩(詞)は、祝福を受けるべく構成されている曲に対して祝福を述べることを当然として強要されている。現存する大半の唄において詞が能天気な世迷言でしかないのは、詞がその強要に屈しイエスマンに成り下がったためである。詞がそんな能天気さを恥じて強制力に対抗しようと決意したとき、その対抗の唯一の手段は、自らを呪いの言葉に貶めて曲の祝福を汚すことでしかない。呪われた出自をもつ詩は結局、祝福されるべく生まれた音楽を前に、出自を隠して卑屈に諂うか、逆に出自を示して曲を圧するかしかない。すなわち、音楽と婚姻せしめられた詩の在り方は、自らの表象を断念した祝言ないし慰み言となるか、自らの表象に支配された呪詛となるかしかないのである。ところが呪詛とは、構造の戦闘行為という詩の極限的な自己規定を断念した形態である。その限界の規定を放棄すれば詩は異形の姿を晒すことになるが、祝福と恩赦の象徴たる音楽の前に罪に塗れたその姿を晒すことは、詩にとって最大の恥辱である。ゆえに詞が曲を圧する暴挙にでることは稀であり、詞はいつも卑屈に耐えてきたのである。音楽と詩の出会いは、史上稀に見る不幸な出会いであったのだ。しかもその不幸は、両者の婚姻という祝祭的雰囲気のもとに隠蔽されてきたのである。

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