2003年1月アーカイブ

20030112

宗教と慣習の分別線は、倫理と道徳の間、不貞と放蕩の間を走っている。前者は自己の内的な規範の範疇であり、後者は共同体からの外的な規範の範疇である。ただし前者は随時反省に晒され時に外化され、後者は不断に内化されつづけている。そして双方に片足をつけ分別線に分断されて存在しているのが、超自我なる実体的倫理道徳規制遂行主体である。宗教と慣習の概念的な混雑は、単に両者が事実上混在して存立しているという実証事実だけに起因するのではなく、そのような共存が可能であるような空間に不可欠の基底として、超自我なる実体的観念装置が役割を果たしているのである。逆にいえば、倫理と道徳を同時に実践する超自我ないしそのヴァージョンなる主体が形成されない共同体において、宗教と慣習は共存し得ない。注意。そのような発達段階の共同体にはマルクス主義において私的所有の前史として想定されるアジア的共同体が相当するが、この流れを一神教を獲得する発達段階論として解釈するのは誤りである。

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