2002年11月アーカイブ

20021112

詩人を名乗ることは自らを言語の闘争者として規定することに他ならないが、言語の闘争は言説の闘争とは必ずしも一致せず、むしろそれは言説よりも低水準な問題系に属している。理論家が加担する言説の闘争とは表象と文脈をめぐる争いであり発話者の政治性を問う問題であるが、対して詩人が加担する言語の闘争は表象と記号の配置をめぐる争いであり表現の戦闘性を問う問題である。

実体主義はもとより関係主義的立場も多くの場合、言語が言説を構成するという理解を許すが、それは言説が言語によって記述される可能性を認めたに過ぎない。すなわち、低水準な認識的段階にある特定の言語配置は、より高水準な言説すなわち文脈「として」認識されるという理解である。だとすれば、言語と言説のどちらが広範な問題を扱い得るかは明白であろう。詩人はその低水準な言語記述能力をもって、高水準な言説の問題を、その問題系の構造から転倒することができるのである。それは文脈に拘束されない暴力的な、それでいて非権力的な主体的行為である。詩人はしばしば、近代的な主体に帰結する。

詩人の言語が権力作用の発現ではないこと、それでいてヘゲモニーの強制力から逃れているとは言い難いこと、それは詩人が知識階級におけるブルーカラーであることを意味する。彼らは権力による言説の支配を受けながら潜在的な暴力を温存しつつ、しかし結局のところ国家装置に組み込まれ権力に絡めとられている。反動的に労働者階級と結託し階級闘争に没入しがちな詩人の傾向はこのような機制に負うているのである。

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