2002年10月アーカイブ

夢現での出来事。

薦められた赤ワインを選ぶ。
「じゃあ、それをおねがいします。」
「承知しました。」
「それで、これを0まわりのテイラー展開にして頂けますか。」
「マクローリン展開で宜しゅうございますね。」
「ええ、二次まで展いてください。」
「ご予約はいつになさいますか。」
「ええと、水曜日は空いてますか。」
「水曜日、午後四時半からは如何でしょうか。」
「四時半か。五時からになりませんか。」
「五時からでも宜しゅうございますが、ご指定の内容ですと上がりの時間が午後十時を回ることになるかと思われますが。」
「そうですか。じゃあ、四時半からでお願いします。」
「畏まりました。お越しをお待ちしております。」

そして目が覚める。本当に頭がおかしくなったらしい。

20021015

周蕾(レイ・チョウ)によるディアスポラ知識人の自己批判。ディアスポラ知識人たちが、サイード的批判がそのまま妥当するような態度を維持しつづけたオリエンタリストのシステムたる西洋文明のエピステーメとネイティヴ=他者とを媒介する境界的存在として働くとき、それはネイティヴに一方的なイメージを付与してシステムのうちの周縁的な項として配置する合システム的行為に過ぎないこと、結局のところそのようなディアスポラの仕事はシステムにおける自己の社会的地位を上昇させるための仕事に他ならないということ。認識論的限界性こそがサバルタンの定義であるが、サバルタンの存在論的資格を認めたとき(認識論的存在性を留保しつつ存在論的存在性を認めるというのはいささか都合的であるが当該の存在はエピステーメの地平の彼方に想定されている)、スピヴァックによれば彼らが語らない(語れない)のは彼らが西洋のシステムにアクセスするための政治的言語をもたない(西洋システムが彼らの言語を受容するためのチャネルをもたない)ためであった。周蕾はそこから一歩進んでイメージの問題を取り上げ、エスニック・イメージにアウラを求める西洋の支配的言説、それに対抗する戦略的本質主義への帰結、さらにそれを拒絶する西洋文明のディフェランスを明確にする。ここで注目すべきは、ディアスポラの自己批判として与えられたこれらの問題群が、しかしながらディアスポラが「属する」西洋文明内部の問題でしかないという点であろう。たとえネイティヴからのイメージの搾取を問題にしていようとも、ネイティヴはつねに現地に住まう存在であり、彼らが西洋内部における自らのイメージによって直接的に傷つくことはない。つまり、これは倫理的な次元の問題ではない。ネイティヴに纏わる問題であるかのように見せかけながら、これらは総じて西洋文明におけるネイティヴのイメージの問題なのである。

20021010

社会の機能とは人々における本質的不可能を実質的可能に転換し本質的可能を実質的不可能に転換することであると述べたとき、その背後では無社会状態における人間行動の本質が想定されている。無社会状態の実現は不可能であるから、この想定の正当性を主張することはできないが、逆に不当性を実証的に示すこともできない。しかるにこれは或る条件下において妥当な想定である。いずれにせよ、我々が観察し得るのは既にして社会的に構築された人々の行動のみであり、その機制についての議論はつねに逆問題なのである。

20021006

現代社会は複数の物語に則る複数の行動を一人の人間に対して同時に要求すが、それは分裂病的な行動様式の要求である。そのようなマルチタスクの要求には、各々の行動を運動制御としてパッケージ化することで対処できる。したがって現代社会では、小脳系が賦活されることになる。それが解剖学的な所見として確認できるようになるのは当分先のことだ。

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