2002年9月アーカイブ

20020922

神話は物語であり、終わりを知らない。物語とは、終わりをもたず、語りの主体をもたない運動の軌跡の総称である。それは音楽の構造に他ならない。そこではいくつかのコンポーネントが生成しては直ちに消え去り、そしてまた再生し、繰り返し死に至る。音楽とはそんな、魂の扉の隙間風である。物語の終わりは決まってこうである。「彼らの冒険は続く。しかし我々はここで彼らに別れを告げ、ひとまずこの物語を閉じることとしよう。では諸君、いつかまた会えるときまで。」と。物語はこのようにして終末を消散させることで、逆説的にその価値体系における至高を実現する(ここで、終末=至高)。その語りの中心から、語られる現在に至るまでの連続性こそが至高性の根拠である。しかしながら、我々の当該の物語は、物語を自称しながらも、つねに終末へ向かう運動であり続けようとし、かつ、主体的に語られようとする。それは至高志向運動ではなく、また神的な視点から記述されたものでもない。

確かに、あらゆる本質的芸術は音楽的な形態に帰結するだろう。しかしながらそれは、当該の芸術に目的性を認めたときの話である。帰結と言った時点でそれは目的志向型の遂行運動として捉えられているのであり、それが至高を志向するような音楽において帰結=結論するのは至って当然のことである。逆にいえば、クラシックをはじめとする中心(志向)的音楽は、芸術のシンクとして機能するようにあらかじめ構成されているのだ。至高に向かって運動しているように見せかけるような音楽は、既にして、その目標となるべき至高のひかりを纏っている。それは、あらかじめ祝福されているのだ。

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