2003年6月アーカイブ

20030607

おそらく、落下するイメイジは世界を切り裂くイメイジであり、着地は世界への定位の願望である。(20001224)

たとえばいま、長いこと太陽に照らされてきた真髄がふると湧きあがる嫌気につかまれて陽のなかに唯一の湿点をもとめてしまったがゆえに湿点から溢れくる泡泡泡の渦がこの地上にまで迫ってくるという、その事実。いま、複雑とは予見可能性が零に収束することの謂いであるが、果たして泡は複雑か。名を冠することをひとつの拘束とするならば、いま、工学の真髄に遠く馴らされた思想の影をみるならば、その目は潰されねばならないだろう。あるいは、思想を擁した真髄を潰すか。いま、矛盾を抱えるのは構わない。しかし、壁はいつか越えなければならない。壁の向こうは、緩やかな曲線に描かれるべきユートピアである、だろう。壁は、避けられない。時間なる疑=観念のためである。(20010505)

あらゆる論理体系は無限後退可能でいつまでたっても着地できない。(20010508)

僕たちの身体の前には、充実した実体など存在していない。在るのはただ、少しばかりの影を映す箱のみ。そのとき誰が、映像ばかりに執着する僕たちを批難できるというのか。映像の消費は逃避ではない。それは、僕たちに可能な最大限である。(20010529)

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