2006年3月アーカイブ

20060319

20050215の再掲。救いの鳥に手を伸べることは、健常という柱に縋ることと同じだ。繰り返す。与件は、正規の手段によってでは解消しない罪、すなわち贖罪不可な罪。なお、記憶を主体的に統御できない当該罪人は、経験に裏打ちされた当該の罪を(時間的な)記憶操作によって消失せしめることもできない。このとき概念から構造的に疎外された罪人の回復は、救済(恩赦)、脱構築(棄却)、爆撃(攻撃)のいずれかによるほか構造的にあり得ない。いつか問題系の外部より救済という超法規的措置がもたらされ自らの罪が昇華することを望む終末論的待機、問題系を脱構築的に内破し外部へと通底させる批判的継承の試み、暴力的な契機を外的に導入して問題系に対抗する爆撃。前二者のみが正確な意味での人間の回復をもたらし得る。第三者はあらかじめ破綻しているが、世界をその理論の中核から陥没させる唯一の方策である。しかし結局、置いていかれる。結局。

20060319

埴谷研究者の多くにとって、自同律の不快(USI)は埴谷読解上立ち塞がる最大のテーゼである。しかしそれを埴谷読解上越えざるを得ない壁として存立しているような問題として取り上げるがゆえにこそ、彼らは感性と信仰の轍に足を取られ、倒れてしまうのだ。自同律の不快は感性と信仰の表明であるがゆえに、その問題系の構造分析を始めると、それは直ちに越えざるを得ない越えられない壁(IUW)に姿を変えてしまうのだ。ところが我々が爆撃すべき埴谷のアンビバレンツは、自同律の不快という感性と信仰の起点かつ結論として表明されたテーゼではない。言うまでもなく、そこには論が介在する余地はないからである。我々が爆撃すべき埴谷のアンビバレンツは、論理と詩の婚姻(MLP)という、戦略と形式の暫定的なあり方として表明された、作品に関するテーゼである。ただしその問題系設定は、革命活動家としての埴谷解釈を著しく困難なものとし、大概にしてその問題系を放棄する。

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