曲に隷属する詞は、それ自体では言語表象として担う意味が空疎であることを知りながら、旋律を奪われたときのためにそれらしい御託を用意しているに過ぎない。しかしながら他方、観念を有する詞は、言語的意味を有さない曲に先行する主体であると信念する向きもある。
いずれにせよ、歌の主体性(主体的存立の資格の設定)は、本質的契機に依存する(本質的な実存として想定される)以上、主観的契機に依っている(本質を想定する主観の裁量による)。すなわち、旋律と歌詞のどちらが主体であるかは、観察者の主観によるものであり、また当時に、主観による断定を赦すものである。
したがってここにおける主体性はいかようにも設定可能であるので、このような議論は無意味である。ただし同時代的主観により設定される以上、このような主体性は一般的に、(見かけ上であるか否かによらず)旋律のような時間的構造を独占している者に独占されている(同時代的主観は時間的構造に魅了されている)。