2001年10月アーカイブ

20011023

主体と主体のあいだに対他的に介在する差異は、ドゥルーズの巧妙なずらしによって主体に対自的に働きかける差異へと転換を遂げたが、それは差異が実用上、必ずしも関係において発動する指標ではないかのように見えるがために可能となった認識である。主体に内在化される差異(自己にむかって働きかける差異)は、いくらそれを他者の内化と呼んだところで、しかし差異の根拠を失ってしまう。その説明として時間を持ち出そうにも、世界は時間のある一点においてのみ同時に可能であるので、他の時間を持ち出すことはできないだろう。差異は見かけ上、現存在の間においてのみ可能となる属性として振舞うが、もちろんそれは外在的に可能となる属性でしかなく、本来の意味での属性ではない(ここで属性の可能は尺度の導入に負うていることは措いておく)。差異は属性や性質や媒介としてではなく、運動として把握されるべきである。それは物体や質量や力ではなく、それらを根拠とみせかけて生じる現象である。

20011021

何度も繰り返すように、映像とは可能的世界の謂いであるが、しかしその世界が実世界(現実世界)の領野といかに分別されているかが不明である。映像から現実を除いた部分集合は、まさにそれが現実でないがゆえにイマジナリーな映像である。ひらたくいえば、それがイマジナリーであるためには現実との対比が遂行されていなければならない(現実が実現していなければならない)。したがって、潜在的に可能でありながら不可能であるような認識の可能は、現実に可能な認識が可能であることに負うている。だが、この表現は必ずしも正確ではない。本来ならば我々は、現実世界を純粋なる与件としてそれのみを我々の出発点であるとすべきであるが、するとそこからいかにして映像なる想念が実現するのかが明らかにならない。ここに多くの者は、神のあそびを充てる。つまり、神が可能なる選択肢=可能的世界のうちからひとつ=現実世界を選んだ、と。しかしながら、現実は映像の単なる分節ではない。いうならば、これは映像を現実に先行させる論件先取である。

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