2001年12月アーカイブ

20011230

世界が視えるということは、有体にいえば世界を理解するということであり、それは世界を内化することであるともいえなくもない。もちろん、外界を自らの心的世界のうちに構成する「内化」は主観客観図式に囚われた認識論的概念であり、誤謬である。制御におけるモデル理論もまた例外ではなく、誤謬である。この内化に対して我々は、ひとつの反論をドグマティックに与えることができよう。すなわち、世界を視ることは世界を手中に収めることではないという信念である。これは現在のところ信念であることを否定しない。

信念集合の矛盾なきを証明できれば我々の理論は真理たり得る。しかし体系の自己証明は不可であるし、我々は端から真理を断念している。

もとより、世界を視ることは厳密にいって世界を理解することではないのだ。世界を視るということは、世界を映像のうちに定位することである。そこに映像は、我々の主観的映像たるを免れ得ないのか。

徹底的な主観主義を採るか、しなやかで曖昧なコミュニケーションの理論を採るか、理論の現場は二者択一に面している。しかし我々は、この選択を留保する。留保ではなく、むしろ断念である。

我々は世界の理解を断念しなければならないのだ。つまり、認識の不完全性をどこまでも追認しなければならないのだ。それで上の問題はことごとく解消する。

とすれば、手中に収められた世界のミニチュア=デフォルメこそが認識であり、それはデフォルメでないことを証明できないということで世界観は満足される。なんだ、廣松の域を出ていないではないか。

20011226

言語による意思疎通はさほど信用しない方がよい。言語はもと局所的に可能であった構造(パロル)であり、それが場を移してもそのままのかたちで可能であるとは限らない。世界は言語的構造の不変を保証できるほど完全ではない。発言や執筆は、意志や意味を伝えるのではなく、たかだか言葉を伝えているのみと理解すべきである(そこまでに留まるべきである)。一見、この仮定は「呼びかけ」の説明を危うくするように見えるが、呼びかけの機能を固定すれば充分な説明可能性をもっているものと思われる。

さて、意味の実体視を回避するためには、意味が表出する場を破砕するより他にない。これが我々が言語は意味の媒体ではないと主張する最も短絡的な要因である。このことからもわかるように、我々の立場は著しく戦略的である。これは我々における真理の断念に起因している。

詩はきわめて私的なものだが(これこそが詩がパロルと呼ばれる唯一の所以である)、それが言語に受肉する以上、立脚点からして他者に屈服している。これは何ら矛盾ではなく、我々は言語(貨幣)に仮託した他者(会話、交換)をして自己(自己資本)を規定しているという旧い事実を再確認するのみである。この事実を援用して、我々は自己と「他己」との非対称可換な構造(という理論装置)を採用することができる。すると詩の他己への屈服から、詩の私的な出自への裏切りを読み取ることができるだろう。詩はその生地に留まるような構造ではなく、何らの作為ではない。もし作為であったとすれば、それはただちに自らに反映し、自己欺瞞とならざるを得ないが、精神の場において欺瞞はほとんど不可である(可能なのはせいぜい「ふりをする」程度である)。結論。詩はいずれ無為のうちに我々を裏切るレトリックなのであり、他者に働きかけようとしている言説であるわけでもない。したがって、自らへの反映を無視して世界にむかって投下される詩はあり得ても、(他者の総体として想定され得る)社会にむかって企図される詩はあり得ないのだ。何ものかに対して働きかける(かのように振舞う)運動=言語であるがゆえに、全く意図せずして自らの立脚点たる他者を攻撃し、無為のうちに他者を裏切る。このような詩による他者への関与は、

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