2002年1月アーカイブ

20020114

終末論に毒された物語が自らを恥じ、終末に落ちることなく自らを全うしたいと願ったとき、その終末論の克服は非超越論的に成されねばならない。これは一見して錯謬である。物語に終尾が存在することは概見するに避け難い必然的事態であり、物語の構造そのものにあらかじめ埋め込まれたプログラムである。したがって、終末は超越論的に規定されているのであり、その爆撃もまた超越論的に為されねばならないように思われる。

しかしながら実のところ、終末は物語そのものにとって何ら必然的な事象ではなく、それは経験的に陥る安息点であるに過ぎない。そもそも、物語が終末を迎えねばならないことへの物語そのものからの要請はないのである。それは、物語の構造による見せかけの要請である。

語り手が物語の望むような物語を進めるためには、豊かなる物語そのものの精神と、避け難い物語の構造なる規定=基底と、その両者を調整しながら物語るという技巧を必要とする。

物語が、あるいは語り手が、終末論こそを終わらせなければならないと考えるならば、その実現はいかなるものか。永遠なる物語を端から排除している我々にとって、それは物語の中絶よりほかにないものと思われる。終末ならざる中絶、それは果たして可能であるか。中絶は、構造にとっては確かに終末と全く同等の形態である。物語にとって中絶は、少なくとも終末ではない。これが我々の現在のところの妥協点である。

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