2002年2月アーカイブ

20020206

報告者の理解からすれば公共圏とは、個人の私的な領域からはじまり、市民としての公的で民主的な表象領域までにわたる連続的な言説空間のスペクトルである。この公共圏の概念を提起したのはハーバーマスであった(ただしハーバーマスの著作における定訳は「公共性」である)。現代では市民運動の文脈において引かれることの多い理論であり、いわゆる「新しい市民運動」などといった活動の理論的支柱として機能している理論であるといえる。また、コンピュータ・ネットワークが発展してきた近年では、公共圏をインターネット社会において再定位しようとする仕事も多い。

権力に対抗して生じるこの公共圏は、権力の不当な制限から逃れた公開された言説空間を意味する。したがって公共圏に拠る言説は総じて、異質な他者を隠蔽するのではなく、開かれた言説の場において相互の一致点を模索してゆく立場をとろうとする。しかしながらこれに対し、公共圏理論が想定する市民社会が余りに均質的であり、実社会における個々人の多様性を包含しきれていないのではないかという批判もある。この批判は妥当なものであろうか。

理論的な構成として、公共圏の概念は全く完全なものである。しかしながらその理論の根幹(前提)は、理念的にして理想的な状況という契機に負うている。その状況とは、全ての人々が市民として公共圏の成員となること、そして公共圏の成員が一致し得る妥協点が存在すること、この二点である。

公共圏の理論が人々に有効にはたらくのは、その人々が公共圏の成員(市民)たる限りにおいてである。そして何より、公共圏の成員たるためには、その人々があらかじめ認識可能な状態に名付けられている(象徴界の存在として可視化している)必要がある。逆にいえば、未だ市民として認証されておらず、しかも言説の場から隠蔽されている人々がいるとすれば、その人々が公共圏に参与する契機はないことになる。これが、公共圏が孕む第一の欠点である。

次に、公共圏の成員が一致する妥協点が存在するという仮定が誤りであるとすれば、暫定的に据えられている妥協点はいつまでも究極の一致点に至らず、人々に抑圧的に機能する可能性は否めない。この点は、前回のレポートにおいて述べたとおりである。

実のところ、報告者も条件付きでこれらの批判に同意する者である。あらかじめ想定不可能であるはずの多様性を全て包み込もうとする態度に陥りがちである点が、公共圏理論が原理的に孕む問題点であると考えている。しかし逆に、公共圏理論の実践的有効性については一定の評価を与える。

20020205

鍵盤に手を曳くあなたに微笑み奏でるための指をもたず、頬に息かける腹で何某かの比較を犯している。叫ばぬ耐えと引き換えに、告発されることのない箱に到達する。懸命に足を曳くあなたを引き受け抱き締めるための腕をもたず、措定されたはずの二人称が輪郭を失っている。言葉が降ってくるのを待ち、ただ、隔壁にぼやけたフィルムを視ている。

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