2002年3月アーカイブ

20020329

人命と国権、人命と法秩序、生活とプライド、正義と利益。これらの相剋は、全く異なる価値基準のもとにある両者を同一の文脈に引きずり出し、本来ならば不可であったはずの比較を遂行する社会的状況に負うている。ここに挙げたいくつかの二者のうち、前者が失われることの悲劇性を述べ立てて後者を貶め批判するいわゆる「良識派」の常套戦略は、全くもって効果を為さない。前者の優位を主張しようとしても、それはせいぜい、後者の優位を主張する党派との泥仕合にしかならない。両者をひとつの秤のうえに載せることを許した時点で、前者を尊重するような言説は既にして敗北しているのだ。たとえば死刑制度にせよ、死をもってする罪の償いという可能性を許した時点で、死刑制度反対論は既にして敗北している。たとえば戦争にせよ、戦争の可能性を許した時点で、いくら戦争の惨禍を挙げ連ねようと無駄なことである。それらの言説は既に、想定されたひとつの壮大なる目的の前に敗北している。

不可能なはずの比較が遂行されてしまうこと、これはもちろん、不可能を可能にする社会的機制のひとつである。良識派に可能な戦略は、これをさらに、可能を不可能にするもうひとつの社会的機制によって転倒せしめ、可能となった比較をふたたび不可能にすることであろう。しかしながらこれはそう容易な作業ではない。ひとたび可能となった比較は既に、人に選択肢を与えてしまっているからである。

20020328

たとえばきっかけは、血縁であろうと、一枚の書類であろうと、面影であろうと、思いがけない一言であろうと、何であっても構わない。重要なのはその穴に落ち込んでから、その「場」、その関係性を、いかにして構築してゆくか、という点にある。たとえば「運命的な出会い」などという言説のように、措定の魔力を暗示したり、それを神秘的なまま温存したりすべきではない。措定は、それが必然であるか偶然であるかにかかわらず、唯一なるものに対して指名が下された(あるいは指名が下されることが決定した)単なる一時点としてのみ了解されるべきである。なぜその指名が下されたのかは、可能な限り、敢えて問うべきではない。さもなくば、措定において暴力的な契機を許すことになるだろう。

しかしながら原初の理論を問う我々は、そこに措定的暴力が介在する可能性があるのであれば、その理論の間隙たる暴力を爆撃せねばならない。その箱は既に開かれている。ただし、これは概して理論上の問題である。

我々は生活に際して、さしあたり措定の根拠を問うべきではない(問わない方が身のためである)。なぜなら、措定はまさに措定であり、無根拠に遂行される〈無論理オペレーション〉だからである。それを問うことは、論理の根拠を問うことに他ならない。現状において、論理の根拠は、無論理である。我々は「理論」の名のもとに、かろうじてこの背反的な「論理」との距離を保っているに過ぎない。論理と無論理の共犯関係に挑むには、現状の理論は余りに果敢ないのだ。

20020317

絶間ない自己更新。存在は芸術の高みへと跳躍し、芸術はその肉を得る。そこにおいて存在と芸術は共鳴し、緊張を孕みつつも徐々にその影を重ね、やがて一致し、終には存在芸術なる一存在をなす。しかしながらこの跳躍は「最後の革命」を俟ってはじめて可能となる超言語体験であり、換言すれば、ただいま現存する存在(可能なる存在)は存在芸術に触れることができない。かつて私は、この存在芸術なる観念を基礎として、ひとつの世界観と、ひとつの革命理論を構築しようとしていた。ところが三年前の夏、存在芸術として存在することないし存在芸術を志向することこそが疎外の原点であることに気づく。存在芸術は一見したところ明らかに疎外であるのだが、詳細にみるとそこには一つの回避の途を見つけることができる。つまり私の理論は、その回避の途から生えていたのだった。しかしその途は、我々の背後から、恐ろしい目晦ましを我々に投げつけていた。それに気づいた私はただちに転向し、存在芸術こそが爆撃されねばならない仮想敵であると措定した。以来、我々の理論のキーは、存在芸術から爆撃へと移行した。現時点では、その目晦ましについて語ることはできない。

そして繰り返し嘔吐する。私は云々である、と一人称で語り出したところで、誰とも知らぬ若輩のそんな私語りを興味もって受け留めてくれるような聞き手ないし読み手がいるだろうか。あは、いや、誰も。もしこの発語が誰の許にも届かない語りであるとすれば、僕は僕自身のみに語っていることになろうか。僕は、僕は、と自分に語りかける姿は実に滑稽としかいいようがない。そう、自称からはじまる文体は、熱心な聞き手を欲する危険な文体である。

こうして我々は反復する。しかしこの反復の一段々々にはやはり、微細なずらしが施されている。つまりこの軌道は円ではなく、螺旋である。このように、時間ではなく、現時点から遡及的に構成される歴史(ないし歴史観、歴史感)を採用した我々の戦略は、いつか破綻するだろう。我々はその前に、越境してしまわねばならない。

20020304

第一位が第一位であるために本質的なものは何も存在しない。第一位が第一位たるのは、第二位との比較が遂行される限りにおいてである。そして第一位と第二位とのあいだにある差異は絶対的で本質的な差異であるわけではなく、それは量的な差異でしかない。それでもしかし、一般に両者は本質的に異なるものと考えられている。それは、第一位が勝者であり第二位が敗者であるという評価と、勝者は成功者であり敗者は失敗者であるという評価においてである。両者のあいだに存在する量的な差異は、勝敗という時点ではまだやはり相対的な差異でしかないが、成功と失敗という項を導入した時点で絶対的で本質的な差異へと変貌する。

20020303

世界における問題群とは総じて理論化しきれぬ残余である。残余がいずれ理論に回収されるとみる形而上学に対し、現代哲学は残余の前に膝を屈した。現在、心理学を中心に、残余を物語において回収しようとする動きがある。しかしながら我々に言わせれば、物語は詰まるところ理論の擬態でしかなく、物語もまた権力の機制を免れない。現在のところ我々に可能な方策といえば、ひたすら残余を爆撃することのみである。そこに我々が肉塊を自覚するのは、残余に超越的な契機を与えないがためである。

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