2002年4月アーカイブ

20020427

私は知っていた。彼らには革命後の世界なぞ視えてやしないということを。彼らのヴィジョンは実のところ映像でも何でもないことを知っていた。彼らが求めるのは、革命なる唯一点のみである。彼らのいうプロレタリア独裁が、千年王国の隠喩に過ぎないということに私は気づいていた。そしてその実態が今日の世界の打算的な延長に過ぎないものになるであろうことも、予感していた。労働者自主管理経済にせよ、同じことだと。「労働者の自主管理経済は特殊な国家資本主義である」(ジガ・ヴェルトフ集団「東風」)、ゆえに疎外の構造は温存される。そう、彼らには終末後が見えていない。彼らも所詮、終末論に毒された職業革命家に過ぎない、と。理論家に転身する前から、理論闘争に参加する前から、私はこのことに気づいていた。

私は彼らのように、「平和」や「富」に惑わされることはなかった。私のテーマはいつも、いかにして世界を終わらせるか、という一点のみにあった。終末後なぞ知ったことではない。私を疎外する世界をいかにして爆撃するか、叩き壊すか、その一点のみである。そう、爆撃概念は実のところ、終末論に出自をもつ概念である。しかしながらこれは我々の概念装置のひとつである以上、不断に立脚点銷失されてゆかねばならない。爆撃は、裏切りを内包しなければならない。

20020401

先に我々は自身を、肥大生物であるのか越境生物であるのかという二者択一の問題系に投じた。しかしながらそこから導かれるのは、我々は越境生物であり、そして同時に肥大生物であるという陳腐な結論でしかない。

我々は過去を内包している。これは避け得ずして事実であり、この意味において我々は確かに肥大生物である。しかしながら現在我々がこの身に包含しているのは、過去の各々の時点における状態ではなく、それらを総合した積分値である。つまり越境生物でもある我々は、越境に際してその各時点における値を捨て去っている。

ここに統一的な擬似宗教理論を立てることができる。現在我々がもつのは、積分値、現在値、微分値の三つである(ただし直前の過去値は保持されており、微分値はこれと現在値とから算出されたのものであり、また未来を深く志向する場合には多階な微分を考えることが多い)。このとき、歴史の語りが要求されたとする。歴史(過去値の系列)とは、過去の各々の時点における「現在値」の系列であり、越境してしまった我々はこれを現在持ち合わせていない。そこで物語装置である我々は、いまもつ三つの値から、過去値の系列を算出してそれを連綿と物語る。歴史構築主義の「歴史とは現時点から遡及的に構築されたものである」との命題は、このような機序を指しているのである。ここで最も重要なのは、過去値の算出に際して、微分値が用いられている点である。微分値は現在値から目標値にむかう方向として設定されているものであり、これを現在値と照らし合わせ、積分値を微分する(現在値にむかう方向づけをして過去値を逆算する)ことによって過去値が算出されている。この意味において先の命題は、歴史とは現時点における目標から逆算的に構築されたものである、と拡張することができよう。

では、この積分を解放するとはいかなる事態であるのか。エアにおける計画では、生命の積分たる爆薬を解放し、校舎を爆破するはずであった。抱えきれなかった過去の面影だけを凝縮して残した塊である爆薬、それを捨てること。肥大生物の自己放棄、歴史の断念。立脚点銷失。

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