2002年5月アーカイブ

20020528

デリダ(正確にはハイデガー)によって明確に概念化された脱構築とは、構造の内部に在りながら外部的な視座をも用いてその構造が犯している排除を見出すという、自己批判の営みでした。我々が用いる爆破という概念は、構造の内部からその構造の更新の可能性を探るという点において、この脱構築に酷似しています。しかしながら爆破は、完全に構造の内部へと自己を投入し、その内部的な営みのみから構造の綻びを見つけ、構造を解いてゆく作業です。ここにおいて、構造の綻びが構造の外部に繋がるものかどうかは全く考慮されていません。つまり爆破には、外部的な視座というものが想定されていない。脱構築においては、構造内における営みがどこかで反転して外部に排除された項を内部へ再導入することが期待されています。つまり脱構築には、隠蔽された他者の救出という隠れた目標があるわけです。しかし爆破には、他者の存在がもとより想定されていないのです。このように我々が爆破に外部(他者)の視座を導入していないのは、それがもともと閉鎖システムに対して場当たり的に提出された限定的な戦略だからです。

対して爆撃は、爆撃者が構造の内部に想定される必要がないという点において両者とは全く異なる概念です。このとき爆撃者は、爆撃対象たる構造の内部に爆破を遂行するようなエージェントを送り込んで自己批判を促すこともありますし、外部から徹底的な否定を行なうこともありますし(大概にして爆撃は少なくとも一回の否定を潜ります)、また構造が拠ってたつ価値体系を棄却することもあります。しかしながらこのような一連の行為は、構造に対抗するひとつの構造を定立してしまう可能性を否めません。このような事態に対して、自らの構造化を拒否する爆撃者は自らの足許をも爆撃します。これが我々が立脚点銷失とよぶ戦略です。つまり爆撃者は、主体化しようとすれば散逸してしまうような行為体としてのみ記述されねばならないわけです。我々が脱構築を排してこのような戦略を採るのは、脱構築には綻びのない完全閉鎖系として想定される〈存在芸術〉が扱えないからです。〈存在芸術〉は本来、外部からの攻撃は不可であり、内部からの破綻もあり得ません。これに対抗するためには、単なる外的な攻撃だけでも内的な爆破だけでもなく、幾多の裏切りを内包した爆撃という戦略を採るよりほかにないわけです。

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20020529

日没の知らせとともに生誕を祝福して西の天空より降下してきた、雪の形をした神的な意志の破片が頬に触れるとき/鮮やかな傷口は三たび開示される。

燃焼という現象の形而上学的定義は忘れて思い出せなかったが、目前に揺れる焔の提示するものは書き留めることができたと記憶している。記録は実質を喪失していた。

呼びかけられて振り向いた、冷淡な風が/切ろうと微笑んだが、俄かに劇しく咳込んで触覚を遮断した。ただしそれは体性的諸感覚の再検討を迫るものであった。

思想的な頂点を既に通過してしまった芸術家にはもはや挽歌しか残されていなかった。完成した模写に定着液を吹き付ける作業は/爪先を腐らせる作業と同時に成されなければならないが、双方ともに表現内容の空疎化を免れ得ないという。世界は螺旋を描くのだという妄言に似ている。

横溢する脳髄は破綻の象徴であるが、他を許さず完全に断定する文体によってそれは一時的に回避される。勿論そこに技術的本質的問題解決のための提言はない。

二箇所の行間から要請される歴史的定式に基づいた推論は左方より段階的に接近し、ついに複合接続する。宣告を受けるのみの者はそれを知らぬまま安らぐだろう。

音階の断裂を指摘することは社会に対する宣戦布告として捉えられ、拘留された日々のなか、川沿いの或る集合住宅にこれまでなかった二次元に広がる配列を発見し、その構造を高く評価する/脚は動かなくなっていた。

20020526

面影が精神分析的な結節点になっているとすれば、それは爆撃されねばならない。

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20020525

私は先に、指名の暴力性を指摘した。実質的に可換である第三者のなかから、理念的に不可換であるような第二者を措定すること。その機制は無論理オペレーションであり、ほとんど不可避に暴力的な契機に負うている。そして私は同時に、措定の動因については可能な限り論及すべきでないとも述べた。これは原初における暴力的な契機を認めること、すなわち現存の体制の出自に暴力を認めることが、現体制の真正性を毀損することに直結するためであった。しかしながらそれは充分な説明ではない。その立脚点を悉く爆撃してゆくべき我々の戦略において、自らの真正性なぞはもとより考慮の外にある。

我々が措定への遡及を断念すべきであると主張するのは、それが措定後の精神によって著しく歪められる領域だからである。実のところ、措定の暴力はしばしば心理によって隠蔽される。措定の暴力よりむしろ、この措定後の隠蔽こそが重大なる陥穽である。本来ならば、この隠蔽こそを排除すべく、原初の暴力は観念され認められるべきであるのかもしれない。それは今後の論を俟つ課題である。

ところでこの隠蔽は、心理学でいうところの防衛機制、合理化に他ならない。措定後に、措定の暴力によって負った傷を解消すべく、措定の合理化が試みられる。

この合理化は、措定への事後的な言及である。無論理な暴力的措定は、ここにおいて合理化、論理化、理論化される。ここで重要なのは、措定が本来あるべき政治的な領野から心理学的な領野へと移行する合理化のメカニズムである。措定の動因たる権力的な機制は隠蔽され、そこには精神分析が覆い被さる。しかるに措定の理由は、心理学的に個人史を遡及して形成される。コンプレックス、トラウマ、幼少期の記憶、原風景その他、個人の出自が参照され、それらは纏められ(合理化され)物語として語られる。そこにおいて、現時点の権力が介入する余地はない。

なんで私なんですか、という第二者からの問いへの応答は、面影を負っていたから、というような理由へと歪められるのだ。

20020527

我々はこれまで、埴谷雄高の「最後の革命」理論を追認的に採用し、それに仮託するかたちで終末論を展開してきた。ところで埴谷の理論における「最後の革命」は、全てにおいて責任を負ったたった一人の革命者の手によって、彼の内面において遂行されねばならない最終任務であった。それがなぜ単独者の手によって行なわれねばならないのかという点について厳密な議論はなく、その理由は本質的な語りによって仄めかされる程度であった。それは現在のところ、文学者としての埴谷の孤高性において理解されている。

我々が見たところ、この「最後の革命」者の単独性は、認識の各私性、厳密にいうならば主観の各私性に負うている。これはただちに、埴谷が近代日本の域を出ない思想家であったことを意味する。すなわち彼は、現象学のインパクトを経た現代に貫入することのできなかった思想家である。ゆえに彼は近代的な文学者として、孤高とよばれた壁を纏わなければならなかった。

では、現代において「最後の革命」はいかにして概念化されるか。ただちに予想される戦略は、各私性の命題を共同主観的に克服することであろう。このときあらゆる革命は、言語活動として遂行されねばならない。だがしかし、我々はここで反問する。「最後の革命」は、果たして共同主観的に可能なものであるのか。「最後の革命」の各私性はその要件ではなかったのか。

この疑義は論理的に当然として生じ得るものである。それは「最後の革命」の可能が、本質的に定義された公準命題であるからに他ならない。公準として在る以上、我々はこれを内部から批判することはできず、ここに論は投了する。この論の構造的な行き詰まりは、「最後の革命」がやはりユートピア的な終末論の一形態であることに負うている。つまり、「最後の革命」は〈存在芸術〉の外延であり、それは到達不可な高みにある。「最後の革命」は内面から爆破や脱構築することができない概念である以上、それは我々の手によって徹底的に爆撃されねばならない。

20020516

たとえば一枚の紙片でも、一筋の脂肪でも構わない。連綿と語り継がれる神話から脱するための、不可能なる言説。縷縷と伝えられた価値を殴打するため育てられた不可の葉は、頼りない地質に踵打付け耐える。耐えつ、呟く。吾が足許は、たれにも及ばぬ地である、と。揺る傘、翳の輪郭が耐え難く喪われる地にあってもなお、葉は堅持しつづけるだろうか。一撃を待ち噤む揺葉、それに仮託する詩家の黠智。

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20020514

ゆるり葉、あらゆる地帯でプロジェクトするような褐色をも剽窃する、一枚の、葉。蝕まれるその身を嗤わせるよう風に晒す表裏、どちらにも属さぬ肉を孕むことは伝えずに。葉の独白は明らかにしない。ただただ核心から逸らす力学。人間の配列は諦める。やわらかな言葉は諦める。丘陵の影を諦める。ふいと、高台のプラットフォームから、市営住宅の灯りが点いた時間を確かめる横顔、額の荒れ。言葉に侵攻する記憶を遮る力もなく、諦める。至るところに墓標の建つ。教えは性器に至る。

湿った口許に複数の葉。有限の言葉を繰出す口許に葉。葉を噛み味わい、諦める素振りを見せながら、執着は絶えず、絶えず。反復がその効力を失う地まで。

20020512

この問題系を構成しているのは回復可能な言語か否か。入口であるはずの口唇から発される言語は、本来的に嘔吐である。逆行する肛門と同じく、それは性的な動因を潜めている。しかるに、言語の性現象化。言語によって喪われる口唇と、喪われる言語を発する口唇。言語すなわち理論の肉と、口唇すなわち体性との、協働。しかしその圧倒的な官能を前にして理論は離散する。実際のところ、対等なる協働は困難である。理論への芸術の侵蝕。理論構造の音楽化。理論家の生産物たる理論が音楽となり理論家を疎外する。

20020505

名付けよ。その白い箱から肉を取り出す者は、取り出した肉を名付けねばならない。それは自らの血肉を分けた者に与える刻印である。そしてその生涯にわたって、名付けの責めを負わねばならない。名付けた者が、である。

前にも書いたと思うが、睡眠に落ちる寸前の脳の状態が、作曲には最も適している。それはおそらく、覚醒と睡眠の狭間の混濁が、文法の箍が外れる果敢ない間隙であり、そこにおいて可能なる存在(限定的一存在)が容易に象徴化することができるためであろう。あるいは箍が外れるのではなく、主体がその間隙を移動する際に零すエネルギーが、そこに揺蕩う言葉に充填されるか。この予想が正しいとすれば、障壁を越えて現出したその肉は、文法を免れたパロルである。言語の構造が根ざす想像の世界から、トンネル効果のように障壁を越えて象徴界へ突出し、華ひらくパロル。それは既にして文法を爆撃している。メロディとして現れるその形象が詩の極致を体現しているであろうことを、我々は否定し得ない。しかし俺は、音楽が読めない。

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