2002年6月アーカイブ

20020623

存在の権限を与える境界を虚実のどこに設置するかという議論がある。実なるものと虚なるものとは同時に同一の過程において認識されるものでありその問題設定は極めて困難なものであるが、我々の立場からすれば、共同主観的な認識機構を通じて実なるものの存在資格は剥奪されるのであり、そこにおいては存在の権限という概念設定自体が霧散してしまう。これは虚なるものに最大限の資格を与えるような態度とは全く異なる。我々の理論は本体論(存在論)の独立性を否定し、その問題系を認識論の範疇における資格問題として扱うのである。

史実の本体論的存在資格と認識論的存在資格との齟齬、これが歴史認識問題である。或る歴史的事象の本体論的存在が想定されておりながらも、現在においてその認識論的存在を確定できないとき、この史実の存在資格はいかなるものであるのかが問われる。アウシュヴィッツは存在したか、従軍慰安婦は存在したか、南京大虐殺は存在したか。それらは語られてきたか、そしてこれからも語られ得るか。なお、これを歴史に限定せず時間概念を取り除いても通用する問題とするとき、それは「表象の限界」の問題とも呼ばれる(サバルタンは存在するか)。結局のところ、これらの史実の表象限界問題はそれぞれの史実に固有な歴史性に根ざすものであるが、その解決のためにはメタ問題としての本体論と認識論の齟齬の解消が要求されるのである。我々は、本体論から実体論的視角を排除することによってこの解消が可能になるものと考える。

20020619

我々の大衆解釈の基本は彼らの時間意識である。つまり現在性の回復がキーとなる。ここで、これまで現在性ないし未来性と呼んできた記号の性質を、その時々における市場の先端にある商品が纏う性質である場合に限り、尖端性と呼ぼう。

大衆はメディアを通じて尖端性を帯びた記号を消費し、それを纏うことによって自らの現在性を回復する。このとき尖端の記号は未来のsimulacrumであり、したがって純粋に未来性を帯びたモノではない(ただしそう思念されることは稀である)。さらにこの記号は多くの尖端志向的消費者によって大量に消費されることでただちにその尖端性を失い、すなわち価値を失う。これは尖端的記号の裁定条件ともいうべきものである。その時定数は市場の効率性を示すが、消費者においてその価値の消滅が感じられるまでの時間は個人差も大きいだろう。しかし一般的に言って、記号の市場は効率的市場とみてよい。

現在性を資本と置き換えた観点からみたとき、記号の市場が消費者にとって疎外的であることは明らかである。消費者はいかに敏感に市場に反応して尖端性を獲得しようとも、次の瞬間にはまた次の尖端的記号を要求されるのである。彼らがいくら能率的に消費(生産の補完、生産の最終段階、生産の完成)を実現しようとも、彼らはその生産手段を所有しないために、結局は疎外されてしまうのである。

このとき一部の者は自らが大衆に埋没していることに危機意識を抱くだろう。私は構造的に疎外された大衆である、この疎外状況から脱するためには生産手段の所有が必要である、と。そして彼は、クリエイティヴ職を目指すことになる。それは大衆からの脱出であり、記号のプロレタリアートからの脱出である。なお、そこに革命理論が介入する余地はない。

この危機意識が神経症的な不安へと変化する機序については後に述べる。

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