2002年7月アーカイブ

20020726

存在可能性、論述可能性(記述可能性)、爆撃可能性。存在の可否はその存在が実現する世界の構造に依存する。論述の可否はその論述が実現する言語の構造に依存する。爆撃の可否はその爆撃が実現する対象の構造に依存する。しかし一般に、爆撃はそれ自体が記述される必要があり、その記述が実現する言語の構造に依存している。また実際の爆撃の成否はその状況と爆撃者の技量とにも依存するが、ここではそれを考慮せず言語の構造的制限下における最大限の爆撃可能性を想定する。したがって論述可能性と爆撃可能性はほぼ一致する。ゆえに、以下のようなシンプルな包含関係が導かれる。存在可能なものは論述可能であり、爆撃可能である。存在不可なものは論述不可であるとは限らず、したがって爆撃不可であるとも限らない。論述可能なものは爆撃可能であるが、存在可能であるとは限らない。論述不可なものは爆撃不可であり、存在不可である。爆撃可能なものは論述可能であり、存在可能であるとは限らない。爆撃不可なものは論述不可であり、存在不可である。

爆撃可能性(爆撃の構造的制約条件)と実際の爆撃の成否(爆撃の場面的制約条件)を別に考えるのと同様に、ここでの議論における存在可能性が必ずしも存在を保証しないことは言うまでもないが、存在可能性と存在とを等価に扱う議論を展開することも可能である。

20020707

動物は環境世界に限定されているのに対して人間は時間的空間的な確率概念をもって可能的世界に展かれている、などというように現存在を特権化することは非常に危険な論の体系を導くことに繋がる。現状ではその理由の詳細について述べることはできないが、さしあたりハイデガー流の認識様式の欠点を想定しておけばよい。我々は〈映像〉概念を導入することによって、この現存在の特権化を回避する。すなわち我々は、可能的世界のなかに生きることを、映像を視ることと置き換えて論ずる。動物も人間もともに、既にしてゲシュタルト的に分節化した状態で現前する認識的世界=映像を視ているに過ぎない。このとき、当該の認識的世界がいなかる時空間的構造をもっているかは直接には問われない。なぜならそれは知覚の次元の問題であり、(想定される)高次認識を構造的に規定する(上部下部構造論)可能性は現時点では否めないものの、それが認識の「高度」を保証するものではないからである。たとえば、赤外線を感知する能力をもつ爬虫類の感覚および認識がその能力を欠いた人間より高度であるという議論は成立しない。映像の認識論とは、認識の高度を論ずることがナンセンスとなるような、価値論を排除して認識論の範疇に自縛する認識論である。

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