世界が視えるということは、有体にいえば世界を理解するということであり、それは世界を内化することであるともいえなくもない。もちろん、外界を自らの心的世界のうちに構成する「内化」は主観客観図式に囚われた認識論的概念であり、誤謬である。制御におけるモデル理論もまた例外ではなく、誤謬である。この内化に対して我々は、ひとつの反論をドグマティックに与えることができよう。すなわち、世界を視ることは世界を手中に収めることではないという信念である。これは現在のところ信念であることを否定しない。
信念集合の矛盾なきを証明できれば我々の理論は真理たり得る。しかし体系の自己証明は不可であるし、我々は端から真理を断念している。
もとより、世界を視ることは厳密にいって世界を理解することではないのだ。世界を視るということは、世界を映像のうちに定位することである。そこに映像は、我々の主観的映像たるを免れ得ないのか。
徹底的な主観主義を採るか、しなやかで曖昧なコミュニケーションの理論を採るか、理論の現場は二者択一に面している。しかし我々は、この選択を留保する。留保ではなく、むしろ断念である。
我々は世界の理解を断念しなければならないのだ。つまり、認識の不完全性をどこまでも追認しなければならないのだ。それで上の問題はことごとく解消する。
とすれば、手中に収められた世界のミニチュア=デフォルメこそが認識であり、それはデフォルメでないことを証明できないということで世界観は満足される。なんだ、廣松の域を出ていないではないか。