人命と国権、人命と法秩序、生活とプライド、正義と利益。これらの相剋は、全く異なる価値基準のもとにある両者を同一の文脈に引きずり出し、本来ならば不可であったはずの比較を遂行する社会的状況に負うている。ここに挙げたいくつかの二者のうち、前者が失われることの悲劇性を述べ立てて後者を貶め批判するいわゆる「良識派」の常套戦略は、全くもって効果を為さない。前者の優位を主張しようとしても、それはせいぜい、後者の優位を主張する党派との泥仕合にしかならない。両者をひとつの秤のうえに載せることを許した時点で、前者を尊重するような言説は既にして敗北しているのだ。たとえば死刑制度にせよ、死をもってする罪の償いという可能性を許した時点で、死刑制度反対論は既にして敗北している。たとえば戦争にせよ、戦争の可能性を許した時点で、いくら戦争の惨禍を挙げ連ねようと無駄なことである。それらの言説は既に、想定されたひとつの壮大なる目的の前に敗北している。
不可能なはずの比較が遂行されてしまうこと、これはもちろん、不可能を可能にする社会的機制のひとつである。良識派に可能な戦略は、これをさらに、可能を不可能にするもうひとつの社会的機制によって転倒せしめ、可能となった比較をふたたび不可能にすることであろう。しかしながらこれはそう容易な作業ではない。ひとたび可能となった比較は既に、人に選択肢を与えてしまっているからである。