私は知っていた。彼らには革命後の世界なぞ視えてやしないということを。彼らのヴィジョンは実のところ映像でも何でもないことを知っていた。彼らが求めるのは、革命なる唯一点のみである。彼らのいうプロレタリア独裁が、千年王国の隠喩に過ぎないということに私は気づいていた。そしてその実態が今日の世界の打算的な延長に過ぎないものになるであろうことも、予感していた。労働者自主管理経済にせよ、同じことだと。「労働者の自主管理経済は特殊な国家資本主義である」(ジガ・ヴェルトフ集団「東風」)、ゆえに疎外の構造は温存される。そう、彼らには終末後が見えていない。彼らも所詮、終末論に毒された職業革命家に過ぎない、と。理論家に転身する前から、理論闘争に参加する前から、私はこのことに気づいていた。
私は彼らのように、「平和」や「富」に惑わされることはなかった。私のテーマはいつも、いかにして世界を終わらせるか、という一点のみにあった。終末後なぞ知ったことではない。私を疎外する世界をいかにして爆撃するか、叩き壊すか、その一点のみである。そう、爆撃概念は実のところ、終末論に出自をもつ概念である。しかしながらこれは我々の概念装置のひとつである以上、不断に立脚点銷失されてゆかねばならない。爆撃は、裏切りを内包しなければならない。