デリダ(正確にはハイデガー)によって明確に概念化された脱構築とは、構造の内部に在りながら外部的な視座をも用いてその構造が犯している排除を見出すという、自己批判の営みでした。我々が用いる爆破という概念は、構造の内部からその構造の更新の可能性を探るという点において、この脱構築に酷似しています。しかしながら爆破は、完全に構造の内部へと自己を投入し、その内部的な営みのみから構造の綻びを見つけ、構造を解いてゆく作業です。ここにおいて、構造の綻びが構造の外部に繋がるものかどうかは全く考慮されていません。つまり爆破には、外部的な視座というものが想定されていない。脱構築においては、構造内における営みがどこかで反転して外部に排除された項を内部へ再導入することが期待されています。つまり脱構築には、隠蔽された他者の救出という隠れた目標があるわけです。しかし爆破には、他者の存在がもとより想定されていないのです。このように我々が爆破に外部(他者)の視座を導入していないのは、それがもともと閉鎖システムに対して場当たり的に提出された限定的な戦略だからです。
対して爆撃は、爆撃者が構造の内部に想定される必要がないという点において両者とは全く異なる概念です。このとき爆撃者は、爆撃対象たる構造の内部に爆破を遂行するようなエージェントを送り込んで自己批判を促すこともありますし、外部から徹底的な否定を行なうこともありますし(大概にして爆撃は少なくとも一回の否定を潜ります)、また構造が拠ってたつ価値体系を棄却することもあります。しかしながらこのような一連の行為は、構造に対抗するひとつの構造を定立してしまう可能性を否めません。このような事態に対して、自らの構造化を拒否する爆撃者は自らの足許をも爆撃します。これが我々が立脚点銷失とよぶ戦略です。つまり爆撃者は、主体化しようとすれば散逸してしまうような行為体としてのみ記述されねばならないわけです。我々が脱構築を排してこのような戦略を採るのは、脱構築には綻びのない完全閉鎖系として想定される〈存在芸術〉が扱えないからです。〈存在芸術〉は本来、外部からの攻撃は不可であり、内部からの破綻もあり得ません。これに対抗するためには、単なる外的な攻撃だけでも内的な爆破だけでもなく、幾多の裏切りを内包した爆撃という戦略を採るよりほかにないわけです。