存在の権限を与える境界を虚実のどこに設置するかという議論がある。実なるものと虚なるものとは同時に同一の過程において認識されるものでありその問題設定は極めて困難なものであるが、我々の立場からすれば、共同主観的な認識機構を通じて実なるものの存在資格は剥奪されるのであり、そこにおいては存在の権限という概念設定自体が霧散してしまう。これは虚なるものに最大限の資格を与えるような態度とは全く異なる。我々の理論は本体論(存在論)の独立性を否定し、その問題系を認識論の範疇における資格問題として扱うのである。
史実の本体論的存在資格と認識論的存在資格との齟齬、これが歴史認識問題である。或る歴史的事象の本体論的存在が想定されておりながらも、現在においてその認識論的存在を確定できないとき、この史実の存在資格はいかなるものであるのかが問われる。アウシュヴィッツは存在したか、従軍慰安婦は存在したか、南京大虐殺は存在したか。それらは語られてきたか、そしてこれからも語られ得るか。なお、これを歴史に限定せず時間概念を取り除いても通用する問題とするとき、それは「表象の限界」の問題とも呼ばれる(サバルタンは存在するか)。結局のところ、これらの史実の表象限界問題はそれぞれの史実に固有な歴史性に根ざすものであるが、その解決のためにはメタ問題としての本体論と認識論の齟齬の解消が要求されるのである。我々は、本体論から実体論的視角を排除することによってこの解消が可能になるものと考える。