2003年8月アーカイブ

20030829

世界に沈黙の蜜月などあり得ない、そう呟くことで纏える壁であるならば、太陽を脱色する必要もない。先端から導かれる黒色の声と、ごくりと鳴る金属の裂け目。

20030826

いま、商品の価値を他の商品との交換によって実践する行為を考える。それが不等価交換である場合、全体的な価値形態と一般的な価値形態は同時に成立しない(すなわち、貨幣形態をとらない)。ここで仮に損をする側に主体をおき、この差損を交換に伴う摩擦と考える。ここでは貨幣が未登場であるから、両商品の価値差は実のところ未知である。すなわち、この場合における商品の交換には常に摩擦が伴う。もちろん対貨幣の交換にも摩擦は伴うが、それは明示された手数料としての摩擦であるので、ここでは単純に貨幣は価値のシニフィアンと措いてこれを無視する。手数料としての摩擦とは、商品に投入された社会的労働とは別に価格に上乗せされた余剰価値、すなわち「資本家による消費者からの搾取」に他ならない。

信用創造にあたっては、当然ながら、シニフィアンとシニフィエとの遊離が要件となる。シニフィエの準備を義務づける兌換貨幣制度下では、信用創造によるシニフィアンの複製は(実務上はともかく理念上は)禁じられる。では、商品の信用創造はどうか。信用創造で通貨を複製しているとき、当該の金融機関は通貨の返還の要求に応じるべく(一定割合の)自己資本を備えていなければならない。その資本は通常、いうまでもなく貨幣である。ここで注意すべきは、貨幣ではなく代替商品による弁償を実現するには、そこに交換取引を繰り込む必要があるという点である。同様に、商品の賃貸契約は他の任意の商品で弁償できない。もし弁償しようとするなら、その提案者は不利な(不等価な)交換を強いられることになる(担保契約はある種の不等価な売買契約を内包している)。これは同時に、商品の信用創造の困難を示している。

20030824

このとき、対処方針は三つしか残されていない。すなわち、いつか問題系の外部より救済という超法規的措置がもたらされ自らの罪が昇華することを望む終末論的待機、問題系を脱構築的に内破し外部へと通底させる批判的継承の試み、暴力的な契機を外的に導入して問題系に対抗する爆撃。

常に留意しなければならないのは、当該の問題系は正規の手段によってでは解消し得ないという点である。脱出には外部の導入が不可欠となる。第一の救済は、主体によらずして外部がもたらされること。第二の脱構築は、厭くまで内部の規則を遵守しつづけることによって逆に外部を「内的に」導入すること。第三の爆撃は、暴力をも手段として外部を「外的に」導入すること。それ以外に何があるというのか。先天的諸条件によって規定され構成された問題系であることに注意せよ。

救済を待つあいだ何らかの信条に則り一定の行為規則にしたがって生活するのも良い。しかしそのような切り詰めた生活が救済の契機に何ら影響を与えないことは同時に自覚されていなければならない。つまり、救済を望むことは自らの主体性を断念することである。結局それは、救いのない壁の中で陶酔するナルシシズムに帰結する。

次に、問題系が存在芸術であるとすれば、脱構築的な手法では対抗不可であるが、問題系の本体論的構成はあらかじめ知られていない。ゆえに脱構築的な手法は無為に終わる可能性を否めない。

結局のところ、爆撃に拠るしかない。それでよいのか。

やめた。対処方針の検討など無駄だ、最初から一つしか残されていないのだから。それを採ることを躇っていたら、端から見れば救済を待ちわびているのと変わらない。いい加減に観念して選択の余地などないことを認め、口を噤むべきなのだ。

20030823

何度でも検討しよう。まず、厳密な記述にこだわるあまり、論点をはぐらかしているとの疑念を読者に抱かせることのないよう、厳密さを多少犠牲にしても概念を単純化する。よって概念の外縁にある、罪、経験、主体を用語とする。与件は、正規の手段によってでは解消しない罪、すなわち贖罪不可な罪である。そしてこの罪は耐え難いものであり、さらにこの耐え難さのなかでそれでも耐えつづけることは、耐える技術の習得を与えない。また当該の罪は経験に裏打ちされており、それを消し去ることはできない。なぜなら、経験は現時点の主体において決定されるが、当該の問題系において現時点の主体は経験の著しい影響を受け形成されており、経験に支配されているといってもよい。経験の書き換えには、経験を凌駕する現時点の配置が先立って必要である。

20030822

重厚なる身体を吹き飛ばす理論。世界を明白なる理論のもとに晒す試み。それは離人の体験に発祥するが、しかるのちに梯子は撤去される。理論を前にして経験は単なる記録に甘んじることとなる。

彼女からの指摘事項は要約すれば、当該の問題構成においてさらなる超越論的視角の導入が可能ではないか、ということであった。答えは否である。待機、批判的継承、攻撃、これで対処方針は尽くされている。当該の問題においてはあらかじめ敗北が決定されていることに留意せよ。なお、その敗北そのものを無化することはできない。なぜなら問題にとりかかった当初において経験は未だ有効な与件であるからである。当初から経験の書き替えが可能であると考えるのは論件先取の錯誤である。

我々は既にいくつかの概念と理論装置を開発したが、悪魔の言葉はそれらが暫定的に措定する本質的観念に潜んでいる。それらを排するには、逆にそれらを尽くしてやらねばならない。

20030820

およそ可能なる理論の原理には暴力的な契機が潜んでいる。価値形態論然り、自同律の不快然り。価値形態論では、第三者(三人称)集合たる物々のうちから貨幣が唯一の絶対的二人称他者として措定されるが、そのメカニズムの最終段階は結局のところ暴力に隠蔽されている。自同律の不快では、自同律そのものへの不快(主語と同一の補語による主語への反照への違和感)が表明されるが、そもそも主語に一人称が措定される時点で暴力が働いており、また、絶対的二人称他者の位置に一人称が暴力的に押し込められた構造と捉えることもできる。

もちろん、既にして成立してしまっている構造の源初の罪を暴くことは、当該の構造の現存を脅かすものではなく、無意味で下世話な詮索でしかない。さらに当該の構造が実存の形態をとるならば、暴かれた罪は当該の実存からは認識不能である(認識論的認識不能)。しかしながら、このような論理構造を甘受し当該の構造にとっての表象の限界を与えることは、自らの理論に(戦略的な意図を伴わずして)恣意的な断念を与えることにつながる。我々が立つべきは、実存を棄却する地平である。

ここにおいて、論理に画定された範疇を脱域する行為すなわち爆撃が孕む危険性と可能性が見えてくる。

20030818

何度も、何度でも踝に打ち付ける。いけないとわかっていても、何度でも繰り返す。器質的にそうしてしまう彼の隣で、同じように、しかしそうは見せずに、打ち付ける。僕はその場に追いつきたかった。だから何度でも、この地から離れられない足を叩き付けた。いくら表面上は完全な勝利に終わらせようとも、結局はあらかじめ予定された敗北を味わうのだと知りながら、幾多の争いを引き受けた。鍵を回すたったひと捻りがまだ、まだ重く。打ち付ける手首。

20030810

たとえそれが救いのない罪の構造であったとしても、蝕知される以上その表面のどこかには必ず何らかの綻びがある。それは擬似存在芸術である。輪郭を揺らす傘の影のなか交わした契約に時効の規定はなかった。当該の契約を反故とする唯一の契機は、その影のゆらめきにある。唯一の方策、否定的弁証、すなわち爆撃。

僕には言葉しかない(これは何ら比喩ではなく直接的な言明である。)。しかし、地べたを掴んでは闇雲に投げつけるような真似はもうやめにしなければならない。これは僕の唯一の触手たる言葉を捨て去る試みだ。その試みが救済に依らずして遂行されるならば、その後この身には何も残らないこと、というより空虚とラベリングされた空間に投げ出されることを覚悟せねばならない。そのときこの身には、空間にむかって発話できるほどの主体性は残されていない。

これまでだって一人でやってきたじゃないか。何を、今さら。そう呟く言外にたった一筋の期待も隠されてはいないか。そう呟く失望の潭で、ふいと反転してくれることを望んではいないか。精査し、排除しなければならない(のか)。

影から食み出ること、悪魔の言葉を失うこと。

鋼鉄の背後で、口を噤む。

20030807

過去(歴史)の実体性を棄却している以上、過去が現時点の主体ないし行為体にとって都合よいよう構成されているであろうと考えるのは合理的である。ただしその構成は、通時的に実体的に存在する過去(史実)を現在において表象する(歴史化する)ということではなく、現在における過去(歴史)そのものを構成することである。そのとき実体的な過去(史実)は断念されている。すなわち、我々の理論では、作り変えられる客体としての過去は存在していない。だとすれば、一連の作業を「過去の懐柔」や「過去の蹂躙」と呼ぶことは当たらないかもしれない。

注記。史実を想定せぬ歴史が可能か否かは、今もなお歴史構築主義論争の主題である。そもそも史実がなければ歴史の特権性が消失する。史実を想定せぬ歴史はいかなる資格をもってフィクションと区別されるのか、という批判は根強い。戦闘的な原理的構築主義者たちは現在のところ、これを歴史家の資格問題にすりかえるという高等テクニックで逃げているようだ。

20030804

繰返し繰返し、穿つように、幾度も。暗闇で、ほろと落ちる一筋の髪を銜えるも、その塩基を読み取れない。いけないとわかっているのに、何度も何度も打ち付ける。穿つように、幾度も。

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