2003年9月アーカイブ

20030907

論理的に駆逐されるべき存在は、さて、必ずしも誹りを受けない。

社会構築主義が机上の空論といわれるのは、それが本質を解体する理論装置を持たないためである。当該の本質的概念が歴史的に構築されたものであることを示そうとも、さらにそれが恣意的に選出されたものであることを示そうとも、それが現時点において覆すことのできない構築であるならば、状況の理論的配置は本質的決定と変わらない。本質的概念の構築性を示すに留まるのは、本質主義と同じ轍を踏まぬよう心がける構築主義者たちのストイックさによるものであるが、しかしそれでは、本質を駆逐できない。

あらかじめ祝福されている者は、祝福されるべき本質を備えているわけではなく、祝福されるべき配置にあるのみである。あらかじめ疎外されている者は、疎外されるべき本質を備えているわけではなく、疎外されるべき配置にあるのみである。これら構築主義的な言明はしかし、倫理的には不十分である。なぜならこれらは直後に、「それゆえ主体が配置を転換すれば当該の疎外は解消する。」という主体性を考慮しない無責任な言明を導き、さらには「疎外の責任は配置転換しない当該の主体にある。」とまで言い出す。それは、主体的選択の余地を与えられていない者に主体的な選択を要求することである。記憶を書き換えることができるのは、記憶を主体的に統御する者のみである。どうしようもなく記憶に苛まれる者に「過去は自分の都合のいいように書き換えられるから。」などと言っても、それは責任能力のない当該の主体において責任を求める発言にしかならない。

構造に隷属する主体が主体性を失ったとき、そこに現れるべき概念は言説装置たる行為体である。しかしこれはレトリックであり、論の進むべき方向性を示していない(行為体は分析対象としての資格をもたない)。本質を解体するためには、本質を構成する根源的暴力の分析が絶対に必要なのである。そしてそのための理論装置は、暴力を内包した爆撃以外にあり得ない。もちろんこの試みは、あらかじめ論理的に破綻している。

暴力とは、理論と世界を繋ぐ架橋である。

本質とは、単体で意味を伴う存在である。その意味の源は、存在芸術という永久機関である。

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